茅原基治と勝田銀次郎の関係は?陽明丸が救ったロシアの子供たち
こんにちは、えりっちです。
今日は茅原基治(かやはら もとじ)さんと勝田銀次郎さんの関係について調べてみたいと思います。
おふたりが成し遂げた功績や命を救った陽明丸(ようめいまる)についてもご紹介します。
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茅原其治
かやはら もとじ
出生地 岡山県笠岡市
職業 航海士
詳細な生年月日は判明しませんでしたが、明治32年に中学へ進学していることから、明治20年生まれと推察されます。
茅原其治さんは結婚されて子供がいたのか?ということも気になったのであわせて調べてみましたが、親戚のかたは岡山県にいらしゃいますが、茅原其治自身の直系の子孫はいないようです。
勝田銀次郎
1873年10月1日に愛媛県松山市で米穀商の長男として生まれましたが、中学のころに父親が亡くなっています。
東京英和学校予備学部を19歳で卒業してから貿易の会社で働いて27歳で独立、勝田商会を興して海運業を営みます。
これは貿易会社で働いたことで培ったのかもしれませんね。
第一次世界大戦勃発で海運業が盛んになったことも後押しされたのかもしれません。
順調に業績を伸ばしていた1918年に勝田銀次郎氏にとって大きな転機となることが起きます。
ロシア革命で難民となった数百人の子どもたちを救出するために、米赤十字が各国の海運業者に子供たちの移送の依頼をしたのです。
もちろん、勝田銀次郎の勝田汽船にもその話は伝えられました。
ただ、これには日本とロシアとの関係性が良くなかったために、どこの海運業者も二の足を踏んでいました。
そこで、勝田銀次郎は自身の会社の貨物船を自費で改造して早々にロシアの子どもたちの移送に取り掛かりました。
この時の船の改装費は数千万円かかったそうです。
元々は貨物船で寝室やトイレひとつの設備にしても大人数を乗せられる状態ではありませんでした。
突貫工事で1か月で改装を終えて、ロシアに向かって出航の準備を整えましたが、ここで再度問題が発生します。
その船の船長を引き受けてくれる人がなかなか見つからなかったのです。
関係が悪化しているロシアに向けての航海と、その後太平洋と大西洋を抜けて3ヵ月もの航路を行かなければなりませんでした。
そこで、ようやく船長を引き受けてくれる人が現れたのです。
それが茅原其治さんでした。
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この勇敢なおふたりがいなければ、ロシアの800人の子どもたちはどうなっていたのでしょうか?
⇒勝田銀次郎邸は今でもある?場所や見学の入館料を調べてみた!
陽明丸
陽明丸と800人の子供たち 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦 [ 北室南苑 ]
開陽丸に救われたロシアの子供たちの子孫が、開陽丸の船長を探しだすために活動したことと、開陽丸で何があったのか?
それらをまとめた書籍が出版されています。
実際に船主の勝田銀次郎さんと、陽明丸の船長をしていた茅原其治さんの存在がわかって日本までお墓参りに来ています。
自分の祖父母が助かっていなかったら多くの子孫が生まれてきていなかったかもしれません。
勝田銀次郎と茅原其治の人を救いたいという一念が困難と言われた航海を成功させたんですね。
日本でもこの功績を知らない方が多いと思うので、いろんなところで広めていきたいですね。
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