勝田銀次郎邸は今でもある?場所や見学の入館料を調べてみた!
こんにちは、えりっちです。
かつて神戸で開運事業主となって、神戸市長も務め上げた勝田銀次郎(かつた ぎんじろう)さんをご存知でしょうか?
日本の偉人のかたの紹介はたびたび目にすることがありますが、勝田銀次郎さんの生い立ちや業績はあまり伝わっていないようです。
私も恥ずかしながら今回、初めて勝田銀次郎さんのお名前と経歴を知りました。
改めて、勝田銀次郎さんの経歴とかつて住まわれていた勝田銀次郎邸が現在どうなっているのか調べてみました。
まずは、勝田銀次郎さんのプロフィールから紹介します。
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勝田銀次郎
かつた ぎんじろう
生年月日 1873年10月1日
没年月日 1952年4月24日
没年齢 79歳
出生地 愛媛県松山市
勝田銀次郎さんは中学生の時に父をなくしたあと、東京英和学校(今の青山学院)の予備学部で学ぶことになります。
昔だと一家の大黒柱を失ってしまうと子供たちは学業どころではなくなると思いますが、東京英和学校への入学となったきっかけが、たまたま当時の校長の本多庸一氏と知り合ったことが始まりです。
もしかすると、今の奨学金のような制度で学費を賄ったのかもしれませんね。
予備学部を19歳で卒業したあとは、大阪と神戸で貿易の仕事に就きます。
27歳で独立して勝田商会を立ち上げ、勝田汽船として海運事業に乗り出しました。
20代でここまでの事業展開をしたなんて商才があったんでしょうね。
ただ、終戦後に海運業の不況により勝田銀次郎さんが56歳の時に勝田汽船は倒産してしまいます。
それだけで終わらないのが勝田銀次郎氏で、60歳の時に神戸市長に当選して2期8年の任期を終えました。
⇒茅原基治と勝田銀次郎の関係は?陽明丸が救ったロシアの子供たち
勝田銀次郎さんがロシアで称賛されているわけ
実業家、政治家の顔を持っていた勝田銀次郎さんですが、それ以上に素晴らしい功績を残しています。
勝田汽船を経営していた時に、ロシア革命で難民となった800名の子供たちを救出したという史実が残されています。
私たち日本人は、そんなことが起きていたなんて知らずにいるひとが多いのではなでしょうか?
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勝田銀次郎さんは、勝田汽船で所有していた貨物船・陽明丸(ようめいまる)を客船に改造をして、ウラジオストクに迎えに行ってそのまま3か月の航海をしてフィンランドまで送り届けました。
この時、勝田銀次郎さんは45歳です。
この子供の救出には勝田氏はかなりの額の寄付もして人命を救うことに尽力を惜しみませんでした。
そして、この時にロシアで救われた子供たちは輸送してくれた船を特定して、子孫たちまでもがわざわざ日本にある勝田銀次郎氏の墓参に訪れました。
こんな偉業を成し遂げた日本人の存在を私たち日本人が知らなかったなんて恥ずかしい限りです。
今までこの話しが伝わっていなかったのには理由があります。
当時は日露戦争が集結してまだ間もないころで、「ロシアの子供たちを助ける」ということが日本国内で非難されるかもわからないという状況でした。
この救出作戦に関わった陽明丸の乗組員たちは勝田銀次郎さんに非難の矛先が向かないようにと周りのひとにも言わなかったために、この偉業を知る日本人が少ないということです。
平成になった現代、勝田銀次郎さんの功績を広めていきたいですね。
陽明丸と800人の子供たち 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦 [ 北室南苑 ]
勝田銀次郎邸の現在は?
海運業で成功した勝田銀次郎さんの邸宅が神戸市灘区に現存しています。
大正11年に建てられた邸宅ですが、ちゃんとメンテナンスをしていれば長くもつものなんですね。
よく昔の邸宅などが解放されて見学ができるようになっているので、勝田銀次郎邸も現在そのようになっているのか?と思って調べてみました。
こちらは現在では、建物は当時のまま姿を残しているようですが、天理教兵庫教務支庁所属の建物になって使われています。
勝田商会が倒産した時に手放されたんでしょうね。
そんなわけで、邸宅内の見学などは行っていないようです。
外観だけでも素敵なので、玄関先は観ることができます。
映画「寄生獣」のロケ地としても知られています。
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